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誰の中にも本当は神様がいる

日々徒然

ブログに書くには少々暗~い話であるが、わかる人には暗くない話。話題が好きそうな人だけ読んでくださいな!
(スピリチュアル系や宗教の話ではありません)
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私は小さい頃はなかなか寂しい思いをしていた。
教員家系で、共働きの両親は教育に必死であり、家でも学校のように厳しかった。叱られると大泣きするのが子供ってもんで、それでも、めそめそ泣くとまたその泣く様を「自分がいけないのに!」と叱られた。叱られるときは本当にピリリとしていた。
そんな中で小さい頃の私は、家の中では自由人の、異端児だった。シリアスな場面では賑やかし、お姉ちゃんの運動会のダンスタイムに勝手に参加したり(イケメンの先生がいたからという理由で)、自由奔放なふるまいでときどき怒られてもいたけど。
かといって空気は読めすぎるほどに読めていたのかもしれない。小学生の頃に「図書館利用者ランキング」でノミネートされると賞がもらえるキャンペーンがあり、私は軒並み1位に名を上げていた。でも、本当に読んだ本は、ウォーリーを探せ!ぐらいだったのでは(先生ゴメン!)。大人が喜ぶから、なんだかな~と思いながら、本を借りるフリをし続けてたんだ。教員だった両親は大いに喜んでいた。読書はつい数年前まで、大嫌いだった。
「神様」。
小学校低学年だったか、幼稚園だったか、私はあるとき「自分専用の神様」をコッソリと家の廊下の片隅に作った。熱心な信仰はない家だったが田舎の家には神棚があり、それを真似して作った小さな場所がそれだ。皆が使うスペースに、自分だけしか価値がわからない場所を設けるのも好きだった。
この「自分専用の神様」はとっても都合がいい。なんせ自分専用。叱られたり、嫌なことがあったりすると紙で作った手作りのお花をお供えに行き「さっきあんなこと言われたけど、神様、私、悪くないよね!?」と心の愚痴を伝えに行った。好きな子ができたときは「神様、あの子と手を繋ぎたいです・・」とお願いしに行き、はたしてその後に御利益はあったのか無かったのかは忘れたけど、ともかく全部私の味方!!という設定だった。
こんな話を最近、トホホな話として、とある作曲家さんに話したら「それ、めちゃくちゃクリエイティブだな!!」と絶賛されたのだ!
え・・・自分で勝手に設定した神様に自分のお願いしに行くって、なんだか独りよがりでむなしいような寂しさがあったけど・・・
氏曰く「違うよ!その、”私、悪くないよね?”とか”手を繋ぎたいです”って心のおおもとには、根拠なんてないじゃん?でも、その気持ちを見て見ぬフリできずに、わざわざ神様設定して、聖域まで作ってお願いしに行くって情熱がさ!!根拠ないもんをそこまで大事にしたいって、小さい頃にはなかなか思いつかんよ!!その無視できない思いこそが、ナイトウちゃんを導く神様だったんじゃないかと思う!クリエイティブだわ~!!」と感心しきりであった。
感心に圧倒され、しばし驚いたんだけど、
そうかもしれない。
そして、考えてみると、音楽だって根拠がないもんを大事にする行為で。恋愛だって、根拠がない好き!を大事にせずにはいられないことであり。(=自分の中の神様に導かれるということ)
だから、無視できないものを無視しないことが、”それぞれのいい生き方”へ導いてくれるんじゃないかと思った。
根拠がないもんを信じるのは不安だし、「大人だから」「メシ喰えないとはじまらないから」「現実は違うから」「才能ないから」「寂しかったから」、様々な理由で、無視できない気持ちを大して欲しくもないものでごまかしたり、無かったことにすることが可能。
でも、それは、本当は心に嘘ついちゃってるからhappyではないよなー。
私は今も音楽を続けていて、しかもこういう性分なので、古い仲間に陰で「中二病」とか「精神不安定」とか悪口を言われたことが何度かあるのだけど、いやいやいや!である。そんな人が、今や結婚して気まぐれな浮気をしていたりするもんだから、私は「それは本当に心が欲しいものなのかい?それで本当に幸せなのかい?」と突き返したい。絶対幸せなわけがない。どうせなら、道ならぬ恋であっても本気で恋にのめり込んでほしい。万が一このブログを読んでいたら、自分の幸せに正直に生きて!と伝えたい。
誠実な生き方ってそういうことではないですか。
私なんて、確かに悩みも多くて、発展途上でカッコ悪くて、、、それでも、自分の中の無視できない何かを無視しないことだけは誠実にしてきた。自分の無視できない何かを大切にしている人は、人のことも誠実に扱える。(だって、誰かを傷つけて幸せ♪と思う人はおらんだろ。結局、自分の心も無理を負うのだよ)
大人になればなるほど、難しく、トラップもたくさんあるけれど、、誰の中にも、きっとその人だけの神様がいると思うんだ!